ほのかなる息してなげく水の上

演劇とか映画の記録がメインです。

2024年9月に観た映画・演劇の感想

映画

 

ヒットマン』(リチャード・リンクレイター監督、2023年、アメリカ合衆国

リチャード・リンクレイター監督はもっとも好きな監督なのだが、迂闊にも本作は見落としていて公開されたのを知らなかった…。というのもあまりに宣伝美術その他に「リンクレイターらしさ」つまり繊細な心の動きの描写とか実験的な技法が感じられなかったからである。だから本作も、最近の、あまりヒットというヒットも出ない地味だけど実験的で面白い要素がいくつかある映画(それはそれで好きなんだけど)、のようなものだろうと観る前は思っていた。

しかし実際に蓋を開けてみればリンクレイターすぎるほどにリンクレイターの映画なのであった。もう大満足。前任者の不祥事から、パートタイムで嘱託殺人の囮捜査官となった大学教員ゲイリー・ジャクソン(グレン・パウエル)が主人公。囮として殺し屋になりきるうちに様々な「殺し屋」の役を自らイメージし、七変化の囮捜査官となるゲイリー。時にハードボイルド、時にワイルドでセクシー、ときに緻密で偏屈、その役を細かく演じ分けるグレン・パウエルの演技は好きにならないはずがないっていうくらいに格好いい。そしてそんな役を用意したリンクレイター監督とパウエルが共同で書いた脚本も素晴らしい。そしてパウエルの相手役を演じたアドリア・アルホナの魅力も最大に引き出されていて素敵だった。

なんといっても、今回も微妙な心理を言葉で演じさせるリンクレイター映画の本領が発揮されている。ゲイリー・ジャクソンは実在の囮捜査官に着想を得ているといい、ネタバレになるから詳しくは書かないが、終盤の決定的な要素はフィクションであるが、実際に「殺し屋」を演じることで多数の殺人を検挙した捜査官であったらしい。この筋書きで思い出すのは実在の殺人者を描いたリンクレイター監督の映画『バーニー』だ。善良で地元の人から愛されたバーニーが追い詰められて殺人を犯す模様を、近隣住民のインタビューと劇映画を掛け合わせることで虚構と現実の狭間を解体する映画でこれも大好きだったのだが、今回はそこでやったことを完全な劇映画で再現した——ただし大幅にパワーアップして、という印象をもった。

終盤のスマートフォンと演技のシーン(ネタバレになるから書かない)は圧巻で、いままでのリンクレイター映画のなかでもっともドキドキしたと思う。『ビフォア・サンライズ』の電話のシーンがわたしはすべての映画のなかでもっとも好きなシーンなのだけど、今回はそれを越えたかもしれない。一度味わっただけではその微妙な心理描写は読み取れないところも多いので、何度か観てみようと思う。

 

 

 

『Here』(バス・ドゥヴォス監督、2023年、ベルギー)

建設業に従事するシュテファンはアパートを引き払い、故郷であるルーマニアに戻ろうとしている。冷蔵庫を空にするため、あるものでスープを作って知り合いを訪れ、温めて一緒に食べる。蘚苔学者のシュシュは家族の中華料理屋を手伝いながら、森で苔を採取しては顕微鏡を覗く。ふたりのそれぞれの生活の断片が、淡々と流れていく。粗くて温かい画面。そしてある一日、ふたりは出会って、一緒に苔を採取する。舞台はブリュッセルであるらしい。

多くの移民を擁する都市で「よそ者」であるふたりの人生が重なるのは、おそらくこの一日だけ。ふたりがそのあとどうなるのかが暗示されることもないし、ふたりが話した人々とどれだけの親しさでどんな関係を結んでいるのかも、観客は想像するしかない。多くは観客の想像力に委ねられているから、さまざまな物語の可能性を暗示する。そして監督は観客の想像力を信頼しきっているように思える。

出会うこと、がひとつのテーマとしてこの映像のなかを流れているように思う。シュテファンはスープを手土産に友人たちを訪ね、いつまた会うかもわからない彼らとともにスープを食する。話すことも関わりかたも違う。ただぼんやりとしか背景の描かれない、等身大の会話が交わされる。対照的にシュシュは学生と会話することはあれど、個人的な会話は親族としか交わさず、多くの時間を苔に費やしているようだ。そのふたりがお互いに関心を持って出会い、一日をともに過ごす。次にすぐ会えるわけでもなく、また会うことがあるのかさえも分からない状況で交わされる会話。静かで温かい映像なのに、どこかその展開には、ハラハラするものがある。

映像は静かで繊細なバランスを保っているが、ときおり大胆なショットが挟まれて登場人物の気持ちの揺らぎを描くかのよう。そっと寄り添うような音楽も、自然でかっこつけない台詞も味わいが深い。

この一作品だけを観てバス・ドゥヴォス監督のことが大好きになってしまった。こんな経験はもう何年も忘れていた。

 

 

『ゴースト・トロピック』(バス・ドゥヴォス監督、2019年、ベルギー)

上と同じくバス・ドゥヴォス監督の作品。清掃員として働く初老のムスリマハディージャ(サーディア・ベンタイブ)はあるとき帰りの地下鉄で寝過ごしてしまう。終点に着いて帰る地下鉄はなく、タクシーを使うお金もないから歩いて帰ることにするのだが、その中でいくつかの出会いがある、そんな一晩の物語。

といって思い出すのは『ビフォア・サンライズ』なのだけど、まったくロマンティックではないし、本作の主人公は朴訥だ。会話はもちろん交わされるのだけど、躊躇いがちに、というかおどおどしているようにも見えるハディージャはどこか誰をみても少し遠くから眺めていて、溶け込んではいないような距離で世界と接しているように思える。

ショッピングモールの警備員、凍死しかけているホームレスとその犬、ガソリンスタンドのコンビニの店員、かつて家政婦をしていた家、そして娘とその友だちと、ボーイフレンド…。心からなにかを交わすわけでもない暖かさや、受け止められなさ、噛み合わなさ。都市で生きることの孤独と、人と人とのあいだに束の間あらわれるぬくもりを抱きしめたくなる。

移民都市であるブリュッセルの、歴史ある部分や輝かしい場所ではなくて、世の中で光を当てられることもほとんどないような普通の暮らしをしている人たちが住む場所を舞台にして、やさしい光が主人公を包む。この映画は、この街を——華やかな部分もそうでない部分も、そこに生きる人々をもみんな——愛していないと撮れない映画だと思う。

 

『ヒューマン・ポジション』(アンダース・エンブレム監督、2022年、ノルウェー

ノルウェーの港町、オースレンは坂が多くて長崎を思わせる。この映画の根底に流れるのは女性ふたりの静かな暮らし。休暇から復帰した新聞記者のアスタは、建築の保全のためのデモやスポーツチームの取材を記事にしていたところ、先輩記者の手掛けた難民申請者の強制送還に関心を持つ。彼女はライブという女性と一緒に生活していて、ライブはイスをリフォームしたり音楽を作って暮らしている。

しかしふたりの生活は余計な説明を付け加えられることはない。彼女たちの言動から推測するに、ライブはどこからかやってきた移民か難民であるらしく、アスタは婦人科系の手術をしたらしく(おそらくそのために休暇を取っていたらしく)、ふたりはわりと親密な関係であるらしい(公式のウェブサイトには「ガールフレンド」と書かれているが、べつにふたりの関係や彼女たちのセクシュアリティが明示的に描かれているわけではない)。

スローライフ」とか「スローシネマ」という惹句が目に付くのだけど、べつにそういう「ていねいな暮らし」みたいなものを指向しているわけではないように思われる。日本とは労働のあり方も随分違うだろうからどの程度彼女たちの働き方がノルウェーの「標準」と離れているのかはわからないのだけど、ふたりの普通の暮らしが、ふたりに寄り添ったかたちで、描かれている、ただそれだけのことのように思える。「スロー」というよりは相対的にわたしたちの暮らしが早すぎるってだけなんじゃないだろうか。

その時間の流れは『PERFECT DAYS』とも通底するところがあるんだけど、『PERFECT DAYS』が忙しない世の中のなかで自らのペースで満足して生きる人物たちが描かれている一方で、『ヒューマン・ポジション』は世の中の時間の流れそのものを包摂するような優しさをもった映画であることが印象的だった。映像はシャープで、白夜のノルウェーの夏を特徴付ける淡い色彩の寒色が美しい。

 

 

 

『オキナワより愛を込めて』(砂入博史監督、2024年)

沖縄のいわゆる「外人バー」で自らも働き、またそこで働く女たちや米兵を撮影した写真家の石川真生のインタビューをベースにしたドキュメンタリー。黒人差別がまだ根強かった70年代から黒人向けの店の集まる地で働いた石川が回想しながら語る言葉を、彼女の写真とともに紹介する。外人バーの女は売春婦という偏見もあったが、彼女はそのように外側から分かったようになにかをまとめていう言葉に反発し、わたしたちは男を愛した、そして男はわたしたちを愛した、と誇りをもって語る。彼女が語った男たちの記憶の数々が、それを裏付けているようだった。

「米兵を愛してる 米軍が大嫌い そのふたつとも私」と語る彼女は米軍やアメリカ政府、そして日本政府への怒りを隠さない。それでも末端で働く米兵のそれぞれの男たちを愛したことに、矛盾はない。大きな社会の歪みには敏感でありながら、その下で生きるひとりひとりと向き合った彼女の言葉に学ぶべきことがたくさんある。

彼女の言葉を背景に現在の沖縄の映像が重ねられる。それが深みを持たせていたし、70年代と現在をつなぐ役割を果たしてもいた。一方でそれは関係あるのだろうかと思う映像もあったし、余計なエフェクトが多すぎるようにも思えた。好みの問題かもしれないが。

 

 

演劇

 

劇壇ガルバ『ミネムラさん』(9月20日夜、シアタートップス)

峯村リエ演じる「ミネムラさん」を巡る、3人の作家による戯曲の共作。といっても3人でひとつの戯曲を書くのではなくて、三つのパートが入れ子状になって、移り変わりながら演じられるという構成になっている。3人が書いたものをもとにワークショップを重ね、ひとつの舞台に仕上げていったという。たしかに三つのパートからなっているし、それぞれれに違う描き方・演じ方になっているから、違う人が書いたものであることは分かるようになっている。それでいて物語は緻密に破綻なく錬られているから、随分と検討を重ねたのだろうと苦労が偲ばれる。劇作家・演出家・俳優といった従来の固定的な役割を再考して解体していこうという劇壇ガルバの野心が感じられ、しかもそれが成功していたようだ。以前、たしか前川知大さんが、戯曲をみんなで書くと確かに良いものができるんだけど、責任が分散してしまうから結局ひとりで書くようになった、というようなことをおっしゃっていたのだけど、このやり方であればその問題も解決されているように思う。

細川洋平が書いたパートでは「ミネムラさん」捜索が描かれるのだけどミネムラさんを捜しているようで本当に捜しているのか探していないのだかよくわからないシュールな不条理劇のよう。山崎元晴の書いたパートはミネムラさんの家族を巡るパートで女性の自己決定や家族の役割といったテーマで、セルフネグレクト的なミネムラさんがそれでも自己を取り戻そうとしているような不安定で傷を抱えた様子が描かれる。笠木泉の書いたミネムラさんは一方で明るくて面倒見がよく、旅、それも世界一周のクルージングを計画するほど前向きなんだけどどこか翳があり、はたして本当に旅立てるのかどうか。

それらをあわせてみると輪郭のぼんやりとしたミネムラさんははたして本当に存在するのか、というか自我とか単一のある人物というのはそもそもなんなのか、それは誰かの記憶の総体のなかで形作られるあやふやな存在でしかないのではないか、といったきわめて不安定で頼りないものに思えてくる。それでもはっきりとした自我をもてなかったミネムラさんが夢を取り戻し、過去を脱ぎ捨てて自立してゆく物語のようにも読める。そして最後にはミネムラさんの幸せを願う。それは自分の幸せを願うことと表裏であるような気がした。

2024年8月に観た演劇と映画の感想

若干のネタバレを含む可能性があります。観たものすべてを書いているわけではありません

 

映画

『時々、私は考える』(レイチェル・ランバート監督、2023年、アメリカ合衆国

舞台はアメリカの小さな港町。主人公のフランは小さな会社で事務の仕事をしている女性だが、職場のパーティーでは隅っこで静かに壁の花になっていて、同僚同士のお喋りにも加わらないタイプ。そこに同僚としてロバートがやってきて、少しずつ仲良くなっていくのだが、ロバートは外交的で映画好きで同僚とはすぐに打ち解けるタイプ、一方のフランは内向的で積極的ではないタイプなので全てが上手く行くわけでもない。

印象的だったのはフランがロバートの家を訪れた際、ロバートは過去の恋愛関係を語るが、恋愛について訊かれたフランは恋愛経験がないから自分はつまらない人間だ、と落ち込むシーン。仲良くなって会話することには私的な領域への侵入を伴うが、当然家族や恋愛などを訊かれたくない人もいるし、そうした会話に意味を見いだせない人もいる。個人的には恋愛にまつわる話でその人のことを知ろうとするのはムカつくし、本当にどうでもいいと思ってしまうので、ここには共感できてちょっと苦しくなった。

しかしそうした雑談とか個人的な会話では、分かりやすく自分の考えとか好きなものを提示しないと、内面がないものと思われてしまう。そうした人は「人付き合いが苦手」とも言われがちだけど、だからといって人と関わるのが苦手なことばかりでもないだろう。それは社会の習慣として人付き合いってこういうもの、と思われている枠の中で期待されているやりとりが苦手なだけで、その人なりの人との関わり方っていうのはあるだろう。

フランがそうやって分かりやすく自己提示することがなくても、彼女のコミュニティの中では、それでもいないことにされない関係を描いたことはよかったと思う。それに主人公のふたりは男女で、恋愛を思わせる要素もあるのだが、しかしなんでも恋愛の文脈で回収してロマンティックさで覆ってしまうようなことをしていないのも(恋愛にたいした価値を見いだせない自分としては)とても良かった。

 

 

 

『アディクトを待ちながら』(ナカムラサヤカ監督、2024年、日本)

6月末からケイズシネマで公開されたときは売り切れ続出で観られなかったのだが、有難くも再上映で観ることができた。

依存症患者らで作る、自助グループのようなゴスペルグループを題材にして依存症からの回復を描いた作品。薬物やアルコール、ギャンブル、買い物など様々な依存症を持つ当事者や家族らが作るゴスペルグループに、薬物所持で逮捕され活動を休止していた人気歌手・大和遼(高知東生)がゲストとしてコンサートを開くことになるのだが、当日に大和は姿を見せず、もしかしてスリップして捕まったのか……という憶測でグループの仲間たちやファン、報道関係者らが疑心暗鬼を生じて混乱に陥っていく。

一般に依存症といえば心の弱さとして個人の責任に帰されてしまうことが多いし、長く長く付き合っていかなければならない問題なのに、芸能人がスリップして再犯として逮捕されれば「また捕まった」とセンセーショナルに報道されてバッシングが起こるということもしばしばだ。仲間とともに経験を共有し、紐帯を持つことで孤立を防いで依存症と向き合っていく当事者たちのリアルな姿をこの映画からは伺うことができてとても良かった。わたしは一応は当事者家族なので、見ていてつらい部分もあったのだが、それよりも救いのほうが大きかった。

高知東生が出演しているほか、本作には多くの当事者やその家族が関わっている。演技や演出は商業映画のレヴェルとしてしては洗練されているとは言いがたい部分もあるものの(そんなことはケイズシネマなんだから織り込み済みで観ているのだが)、だからこそというべきか、演じること——言い換えれば、身体と言葉を通じて他者を理解し表現すること——の力を感じさせる映画だった。エンターテインメントとしても見やすい作品であり、それは言い換えれば都合のいい物語を書いているという批判もできるかもしれない。しかしながら偏見や無理解と対峙し様々な依存症の姿を提示する映画として観れば、そのようなことは些末に過ぎない。

 

 

『リッチランド』(アイリーン・ルスティック監督、2023年、アメリカ合衆国

こちらはドキュメンタリー。アメリカ合衆国ワシントン州にあるリッチランドという町は、マンハッタン計画で核燃料の生産拠点となり、長崎に投下された原子爆弾プルトニウムも生産し、冷戦下でも大量の核兵器のためにプルトニウムを生産した。しかし地域は放射能で汚染され、燃料生産の終了した現在は環境浄化が進められている。

核=原子力(本筋から外れるけど日本語で核と原子力のふたつを使い分けるのは、ときにすごく面倒くさい…)が町のアイデンティティになっており、リッチランド高校の校章はキノコ雲、そして高校のフットボールチームチームやマーチングバンドの名前は「ボマーズ(Bombers)」だから、外から見ればかなりギョッとする取り合わせだ。

この映画では、核=原子力の町としてアイデンティティを持ちながら、汚染で家族を失ったり、外から批判を浴びたり、キノコ雲の校章をもったり、除染作業をしたり、といった町の人々のさまざまな声が描かれ、それが単純にいいとも悪いとも言えず両義的な感覚とともに町の歴史に刻まれている様子を描いている。

現役の高校生たちはキノコ雲の校章を不適切だから変えたいと思うと語り、それでも町の人々はそれが殺人の兵器を肯定しているのではなくこの町の業績を表しているのだという。校章を変える運動を、あくまで原爆投下の是非ではなく子どもたちの校章として兵器が不適切だという立場から行った元教師は、それでも反リッチランドで反米だと烙印を押され、同僚からも話しかけられなくなったと語った。

そうした社会的な対立だけではなく、この町のミュージシャンや合唱団の歌や、詩も取り込み、また家族を労働上の被曝による癌で失い、政府からの補償もない市民や、町でただ幸せに生活する人々の声も伝えられる。そしてその地は、かつて先住民から軍が接収した土地だった…。

「社会」や「歴史」のことに留まらず、詩や音楽、そしてヴィジュアルアートまでを取り込んだ作品だがそれらがすべて地続きのものである、言い換えればアートの領域も人々の暮らしから切り離されないものであるという確信に基づいているようだった。社会派のドキュメンタリーを期待するならもう少し深く掘り下げてほしいという物足りなさはあるかもしれないが、最後に被曝三世のアーティストが広島からやってきて展示を行う場面は、自分たちの今の話としてわれわれに問いが投げかけられているように感じた。

 

 

『夏の終わりに願うこと』(リラ・アビレス監督、2023年、メキシコ・デンマーク・フランス)

おそらく死期の近い若い父親と娘を軸に家族のそれぞれを、ホームビデオのような距離感の寄った映像で淡々と描いていく。ドラマチックななにかが起こるでもなく、それでもたくさんの登場人物の人生の重みが垣間見られる。TŌTEMという原題が示唆するとおりにメキシコの民俗信仰に裏打ちされているように見え、もう少し調べてみたくなった。しかに邦題も日本版の予告編もどうにかならないものか…。USやオリジナルの予告編が良い。

 

演劇

イキウメ『奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話』(8月23日夜@東京芸術劇場シアターイースト。作・演出:前川知大

小泉八雲の怪談5篇を劇中劇ととして、かつて寺であったという旅館を舞台に小説家とふたりの男が百物語を語るように怪談を演じる。はじめは単純に怪談を語るだけだったのだが、ふたりの男が警察官であることが明らかになり、やがて現実と怪談が(つまり劇と劇中劇が)交錯し、混じりあってゆく…。

八雲の怪談を原題に生き返らせる劇中劇だけでも素晴らしいが、それをもうひとつの奇ッ怪な物語に仕立て上げた脚本も、現実と幻想のあわいを巧みに調整する演出も照明も非常に完成度が高かった。思うに、圓朝以降の怪談というのはどうも理屈っぽくて、なんでも合理的に(といっても科学的な合理性ではもちろんなくて、恨みとか呪詛とかで)オチを付けようとしているように思え、それは嫌いではないのだけれど……、八雲が描いた、合理性とか言葉による解釈では割り切れない奇怪な話を、宙に浮くことを恐れずに描いたところはさすがイキウメの演劇だなあと思うところであった。それにしても終盤の牡丹灯籠=宿世の恋をあんなに綺麗に終わらせてしまうのかぁと感動に包まれ、こうしたロマンティックな演出がイキウメで観られたことにも感激した。

大満足だったのだが、欲を言えば内容に比して音響がやや重たすぎるようにも思えた(もうちょっとサラッとしてても良かったのではないか、というのとドラムがうまく舞台にあっていない感じもした)のと、終盤は劇中劇「宿世の恋」と現代パートのバランスがやや気になったか。というか宿世の恋の力が強すぎて、現代パートが少し弱くて上手く頭に入ってこないような印象があった(観る側の問題かもしれない)。

俳優はなんといっても浜田信也演じる小説家の黒澤が、この世の物ともあの世の物ともつかない感じの役柄がいつもながらすごく合っていた。客演の生越千晴さんも小さな所作の振り方や細かな反応まで、仲居役という目立つ役ではないのだけれど女将やお露と綺麗に立ち回っていた。

 

果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』(8月3日昼@アトリエ春風舎。作・演出:升味加耀)

初演は去年の初め頃で、今回はその再演。女子校が舞台で、ミスコンの中止、性被害といった出来事のなかで疑問をぶつけ合ったり不満や怒りをぶちまけたりしつつ、みんながお互いのことを思いやっているのに閉塞感のある空気を丁寧に描いている。この息苦しさって何だろう。おそらく自分もまたこのような善意の言葉によって人を深く傷付けているのだろう……と思う。

戯曲は升味加耀自身の高校時代のノンバイナリーとしての経験が反映されているといい、升味自身が演じるノンバイナリーあるいはトランスジェンダーノザワは、そこに投げつけられる“善意の”言葉や、被害者になりたくなくて付き合ってしまうことでより傷付いていく様子は、本人が気丈に振る舞っていることもふくめてとても苦しい。また山田遙野演じるまーちゃんの、被害経験から男性や恋愛を忌避し、男性嫌悪的な言動も行うようになる様子も切実だった(が、恋愛することに理由はいらないのに恋愛を忌避することには理由やトラウマが必要、という非対称性は、多くの創作でみられるものだが、なんとかならないものかとは思っている)。

彼女たちの十年後を描いた作品を準備中とのことで、こちらも期待したい。

 

風雷舫『ゴシック』(8月17日夜@小劇場楽園。脚本・演出:吉水恭子)

百年前の長野を舞台として、姥捨てを扱った作品。というと楢山節考を下敷きにしているのだが、それに加えて山中他界を舞台としているところがもうひとつの大きなポイント。由緒ある家の成員たち(本家と分家)が主たる登場人物で、還暦を迎える母は山に詣る(=自ら姥捨ての犠牲となる)ことを決める。それを察した家族たちはなんとか思いとどまらせようとする側と、伝統に従おうとする側に分かれて対立するのだが、そこには日本の近代化、家族の確執、家父長制の犠牲となった女性たちの思い、家の継承権などが絡んでいて一筋縄ではいかない。

母が山に入るために儀礼を行い、山では六道それぞれでこの世ならざるもの、人とも神ともつかぬものと関わる。客席に入った瞬間から、薄暗くて鳥居のある舞台には薄気味の悪さを感じるのだが、ここで人と死者が交わることで舞台は山中の他界へと変貌する仕掛けだ。これはタイトルが示唆するとおり、演劇ユニット鵺的の『バロック』へのオマージュである。

バロック』は観逃してしまったのもあって、演劇でここまでの描写ができるとは思っていなかったので度肝を抜かれたというのがまず率直な感想。戯曲、演出、演技、照明と音響、などが一体になって成し遂げた舞台芸術の可能性を感じさせるものだった。特に吉水雪乃さんの演じる繭は、前半はおそらく知的な障碍を持つ人物であったが、山に入ってからは神がかって人間の醜さをえぐり出す存在となり、そのキャラ変も含めて演技が素晴らしかったし、祥野獣一さん演じる鍵屋はこの世とあの世のあわいに生きるような狂気が舞台に彩り……というか極彩色を加えているようだった。雰囲気や演出が凝っているのだけどそれでごり押しする訳でもなく、物語もしっかりと破綻なく成立していた。

 

暁劇場『潮來之音 The Whisper of the Waves』(8月10日昼@小劇場B1)

台湾の劇団の来日公演。生と死のあわい、人と人とのあわいを演劇と舞踊で表現する。敢えて身体の演じ手と声の演じ手を分けることで、俳優の身体性に注目させつつどこか距離を置いたような観劇体験を演出していたのが印象的であった。アジアの演劇はもっと観たい。

 


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2024年7月に観た映画と演劇の感想

観たものすべてを書いているわけではありません。

演劇

『オーランド』(7月24日夜@PARCO劇場、演出:栗山民也)

ヴァージニア・ウルフの名作『オーランドー』の舞台化。翻案は詩人・フランス文学者・戯曲翻訳家の岩切正一郎。大きな流れはウルフの小説と同じであるが、小説の中で重要なエピソードが簡略化されたり、あるいは小説のなかでは小さな記述が大きく解釈されたりしている。小説との大きな違いは1920年代で終わらず、物語が現代まで続いていること。エリザベス朝の時代から、現代までが舞台となっている。

オーランドを演じるのは宮沢りえ。ほとんど裸舞台で観客の想像力を借りながら400年の歴史のなかで変わりゆく場所や時代や社会を演出する。全編に亘って散文のような、詩的な、断片的にも聞こえる言葉が語られるのだが、柔らかくて耳に良く馴染む言葉だから取っ付きづらさはほとんどない。加えて物語に強力な芯があるので集中力を要せずとも舞台の世界に引き込まれる力がある。詩人としての岩切正一郎の力量を感じさせるし、ほとんど出突っ張りでそれを演じ、観客に聞かせ続ける宮沢りえの力が素晴らしい。

特にオーランドが女性になった後の戸惑いや憂いを語るシーンには、オーランドの言葉に生の言葉の手触りが感じられて、詩と演劇が一体になった本作の到達点であったように思う。

最後に現代の紛争の映像が映し出され、オーランドが瓦礫から赤子(の人形……生きているか死んでいるのかで解釈は分かれるだろう……)を拾い上げるシーンは賛否が分かれるところだと思う。無駄だと判じる向きもあるだろう。しかしオーランドが——ヴァージニア・ウルフが——生きていたら現代の出来事をどのように観ていただろうか、と考えると、世の中を見据える視座は豊かになるように思える。そんなメッセージをこの演劇から受け取った。

 

 

かわいいコンビニ店員飯田さん『空腹』(7月17日夜@OFF・OFFシアター、作・演出:池内風)

入居者の多くが日々の生活で精一杯なシェアハウス。そこに暮らす人々は養護施設出身で空いた時間に熱心にUberEatsの配達員をしてお金を貯めたり、土木業に従事するも身体を痛めて仕事を休みがち——その割にお酒に頼る——だったり、その恋人で暴力に耐えながらも日々の幸せを噛み締めながら生きていたり、ヤバいバイトに手を出してお金を借りてなんとか食いつないでいたり、それぞれに精一杯に生きている。しかし度重なる家賃や共益費の値上げ。オーナーはいい人の様に見えるが、それは入居者を懐柔するための化けの皮のようにも見える……。

それぞれの思いや思考が鬱屈して、不信や不満が溜まってきたところでそれぞれの思いがぶつかり会う。自らもかつてシェアハウスで暮らし、希望を持ってシェアハウスのオーナーとなった美濃部(吉田悟郎)はたびたび入居者に逃げられて経営は精一杯だといい、また自らは裕福であるけれど正義感から弱者の側に立とうとする朝桐京香(小林れい)は実際に生活に苦しむ入居者から見れば綺麗事ばかりで所詮は偽善のように思われて総スカンを食らう。仕事にも行けずお酒も止められず家賃も払えない武藤勝次(渡辺翔)は美濃部に正論でやり込められるが、それでも自分が自分の至らなさを一番分かっていて、だからといってどうにもならない辛さを募らせる。

思いがぶつかり合って白熱する終盤が観る者の感情を高潮へと誘うのだが、じつはそこでもうひとつ隠された物語が用意されている、というのも脚本の見所。終盤に美濃部から「答え」のようにして提示される解決策には納得いかないものもあるが、それでもままならない生活にどうにか道筋をつけるために、ほったらかしで終わらせないための覚悟だったのではないか、とも思う。

シェアハウスの共有スペースの、細部にまで配慮の行き届いた舞台美術には生活のディテイルを感じ、想像させる。そこで暮らす、あるいはいままでそこで暮らしてきた人々の生活史を読み取ることのできる舞台美術は、ちょっと集中力が途切れたときも舞台の上に観客の想像力を保ち続け、それが後からじわじわと効いてくる語りの力になる。

具象美術を追求するゆえに劇団の運営は苦しい状況にあるらしい。ただ細部まで描き込むだけではなく、そこに演技や台本だけでは演じられない生活の匂いを見せる演劇がこれからも続いてほしいと思うので、どうにか応援したい。クラウドファンディングはこちらから。

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iaku『流れんな』(7月21日昼@ザ・スズナリ作・演出:横山拓也

貝漁で栄えた漁村が貝毒で危機に陥るなか、家族のトラウマと大企業の謀略とが明らかになる。漁村と家族の二重に閉鎖的な環境に縛られながら、将来がどうにもならないと分かっていても儚い希望に手を伸ばしてしまう様子、客観的に観れば可笑しいしそれが家族には許せないほど馬鹿げているものだったとしても、希望をもってしまう人間の脆さを描き出していた。

 

 

映画

『つゆのあとさき』(山嵜晋平監督、2024年、日本)

カフェーの女給たちを描いた永井荷風の小説を、コロナ禍のパパ活女子たちに託けて翻案した映画。置かれた場所で咲く女性たちと、彼女たちを都合良く玩ぶ男たちのどうしようもなさ。コロナ禍で世の中に問われていたことが、清算されないままここまで来てしまったのだな、と遣る瀬ない思いになる。高橋ユキノ演じる主人公・琴音が、そのパトロンで社長の清岡(渋江譲二)に浮気がバレて言い合いをするシーンは男のどうしようもなさを、琴音のしなやかさが軽やかに交わすようで、そこだけは唯一救いのような場面だった。

全編にわたって男性目線でいかにも共感を集めやすいような描き方をしているように感じられ、特に西野凪沙演じるさくらのキャラクターなどに感じられてやや違和感を覚えたが、原案がそうであるので仕方ないか……とも思いつつ、でもそういう見方は女性に性的な主体性を想定していないからそのように見えてしまうのかもしれない、とも思う。

この作品の舞台のすぐ近くであるユーロスペースで上映されたことで、映画館の外に出ると、どこかに彼女たちが…と思わせる妙なリアリティを演出していた。


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『哀愁鉄路 〜台湾、こころの旅〜』(『南方、寂寞鐵道』シャオ・ジュイジェン(蕭菊貞)監督、2023年、台湾)

台湾の南部、最後の未電化区間であった「南廻線」といわれる路線が電化される直前の数年を追ったドキュメンタリー。たんにノスタルジーに浸るわけではなく、電化で失われていくものやロカールであるがゆえの乗務員や乗客たちの思いを丁寧に追いかけていた。これを観ると台湾の鉄道の旅をしてみたくなるのだが、いまはもう、映画に描かれた南廻線はないのだということがあまりに寂しい。


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『細い目』(Sepet ヤスミン・アフマド監督、2004年、マレーシア)

マレーシアの名匠ヤスミン・アフマドの没後15年を機に『タレンタイム』(2009)と一緒にイメージフォーラムで再上映されていた作品。若い男女の初恋を描いた作品だが、恋愛ものが好きではない自分にとって見所はそこではなく、マレー系・中華系・ユーラシアンなどのエスニシティや言語、宗教のことなるマレーシアの姿を繊細に描きつつ、その境界を乗り越えようと試みていた映画として記憶に残った。


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『あんのこと』(入江悠監督、2024年、日本)

『つゆのあとさき』と続けて観たので言葉で感想を語るのが難しいくらいに打ちのめされてしまったが、『つゆのあとさき』と違うのは、それほどに露骨で具体的な描写をしなくともカットとカットの空白を委ねることによって、切実で重大なものごとを観る者たちに託すことができるという映像の力であったように思う。

なにごとも善悪に切り分けて後者を切り捨てて解決してしまう世の中でこうした作品が出てくることは希望のように思う。善か悪かに分けられない領域があり、悪をただ悪者として排除すればいいというものでない現実の難しさを提示するのはいいとして、それによって諦念や相対論に持ち込まれたいための工夫がもう一段あればなお良かったのではないか、と思う。

 


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