ほのかなる息してなげく水の上

演劇とか映画の記録がメインです。

2024年7月に観た映画と演劇の感想

観たものすべてを書いているわけではありません。

演劇

『オーランド』(7月24日夜@PARCO劇場、演出:栗山民也)

ヴァージニア・ウルフの名作『オーランドー』の舞台化。翻案は詩人・フランス文学者・戯曲翻訳家の岩切正一郎。大きな流れはウルフの小説と同じであるが、小説の中で重要なエピソードが簡略化されたり、あるいは小説のなかでは小さな記述が大きく解釈されたりしている。小説との大きな違いは1920年代で終わらず、物語が現代まで続いていること。エリザベス朝の時代から、現代までが舞台となっている。

オーランドを演じるのは宮沢りえ。ほとんど裸舞台で観客の想像力を借りながら400年の歴史のなかで変わりゆく場所や時代や社会を演出する。全編に亘って散文のような、詩的な、断片的にも聞こえる言葉が語られるのだが、柔らかくて耳に良く馴染む言葉だから取っ付きづらさはほとんどない。加えて物語に強力な芯があるので集中力を要せずとも舞台の世界に引き込まれる力がある。詩人としての岩切正一郎の力量を感じさせるし、ほとんど出突っ張りでそれを演じ、観客に聞かせ続ける宮沢りえの力が素晴らしい。

特にオーランドが女性になった後の戸惑いや憂いを語るシーンには、オーランドの言葉に生の言葉の手触りが感じられて、詩と演劇が一体になった本作の到達点であったように思う。

最後に現代の紛争の映像が映し出され、オーランドが瓦礫から赤子(の人形……生きているか死んでいるのかで解釈は分かれるだろう……)を拾い上げるシーンは賛否が分かれるところだと思う。無駄だと判じる向きもあるだろう。しかしオーランドが——ヴァージニア・ウルフが——生きていたら現代の出来事をどのように観ていただろうか、と考えると、世の中を見据える視座は豊かになるように思える。そんなメッセージをこの演劇から受け取った。

 

 

かわいいコンビニ店員飯田さん『空腹』(7月17日夜@OFF・OFFシアター、作・演出:池内風)

入居者の多くが日々の生活で精一杯なシェアハウス。そこに暮らす人々は養護施設出身で空いた時間に熱心にUberEatsの配達員をしてお金を貯めたり、土木業に従事するも身体を痛めて仕事を休みがち——その割にお酒に頼る——だったり、その恋人で暴力に耐えながらも日々の幸せを噛み締めながら生きていたり、ヤバいバイトに手を出してお金を借りてなんとか食いつないでいたり、それぞれに精一杯に生きている。しかし度重なる家賃や共益費の値上げ。オーナーはいい人の様に見えるが、それは入居者を懐柔するための化けの皮のようにも見える……。

それぞれの思いや思考が鬱屈して、不信や不満が溜まってきたところでそれぞれの思いがぶつかり会う。自らもかつてシェアハウスで暮らし、希望を持ってシェアハウスのオーナーとなった美濃部(吉田悟郎)はたびたび入居者に逃げられて経営は精一杯だといい、また自らは裕福であるけれど正義感から弱者の側に立とうとする朝桐京香(小林れい)は実際に生活に苦しむ入居者から見れば綺麗事ばかりで所詮は偽善のように思われて総スカンを食らう。仕事にも行けずお酒も止められず家賃も払えない武藤勝次(渡辺翔)は美濃部に正論でやり込められるが、それでも自分が自分の至らなさを一番分かっていて、だからといってどうにもならない辛さを募らせる。

思いがぶつかり合って白熱する終盤が観る者の感情を高潮へと誘うのだが、じつはそこでもうひとつ隠された物語が用意されている、というのも脚本の見所。終盤に美濃部から「答え」のようにして提示される解決策には納得いかないものもあるが、それでもままならない生活にどうにか道筋をつけるために、ほったらかしで終わらせないための覚悟だったのではないか、とも思う。

シェアハウスの共有スペースの、細部にまで配慮の行き届いた舞台美術には生活のディテイルを感じ、想像させる。そこで暮らす、あるいはいままでそこで暮らしてきた人々の生活史を読み取ることのできる舞台美術は、ちょっと集中力が途切れたときも舞台の上に観客の想像力を保ち続け、それが後からじわじわと効いてくる語りの力になる。

具象美術を追求するゆえに劇団の運営は苦しい状況にあるらしい。ただ細部まで描き込むだけではなく、そこに演技や台本だけでは演じられない生活の匂いを見せる演劇がこれからも続いてほしいと思うので、どうにか応援したい。クラウドファンディングはこちらから。

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iaku『流れんな』(7月21日昼@ザ・スズナリ作・演出:横山拓也

貝漁で栄えた漁村が貝毒で危機に陥るなか、家族のトラウマと大企業の謀略とが明らかになる。漁村と家族の二重に閉鎖的な環境に縛られながら、将来がどうにもならないと分かっていても儚い希望に手を伸ばしてしまう様子、客観的に観れば可笑しいしそれが家族には許せないほど馬鹿げているものだったとしても、希望をもってしまう人間の脆さを描き出していた。

 

 

映画

『つゆのあとさき』(山嵜晋平監督、2024年、日本)

カフェーの女給たちを描いた永井荷風の小説を、コロナ禍のパパ活女子たちに託けて翻案した映画。置かれた場所で咲く女性たちと、彼女たちを都合良く玩ぶ男たちのどうしようもなさ。コロナ禍で世の中に問われていたことが、清算されないままここまで来てしまったのだな、と遣る瀬ない思いになる。高橋ユキノ演じる主人公・琴音が、そのパトロンで社長の清岡(渋江譲二)に浮気がバレて言い合いをするシーンは男のどうしようもなさを、琴音のしなやかさが軽やかに交わすようで、そこだけは唯一救いのような場面だった。

全編にわたって男性目線でいかにも共感を集めやすいような描き方をしているように感じられ、特に西野凪沙演じるさくらのキャラクターなどに感じられてやや違和感を覚えたが、原案がそうであるので仕方ないか……とも思いつつ、でもそういう見方は女性に性的な主体性を想定していないからそのように見えてしまうのかもしれない、とも思う。

この作品の舞台のすぐ近くであるユーロスペースで上映されたことで、映画館の外に出ると、どこかに彼女たちが…と思わせる妙なリアリティを演出していた。


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『哀愁鉄路 〜台湾、こころの旅〜』(『南方、寂寞鐵道』シャオ・ジュイジェン(蕭菊貞)監督、2023年、台湾)

台湾の南部、最後の未電化区間であった「南廻線」といわれる路線が電化される直前の数年を追ったドキュメンタリー。たんにノスタルジーに浸るわけではなく、電化で失われていくものやロカールであるがゆえの乗務員や乗客たちの思いを丁寧に追いかけていた。これを観ると台湾の鉄道の旅をしてみたくなるのだが、いまはもう、映画に描かれた南廻線はないのだということがあまりに寂しい。


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『細い目』(Sepet ヤスミン・アフマド監督、2004年、マレーシア)

マレーシアの名匠ヤスミン・アフマドの没後15年を機に『タレンタイム』(2009)と一緒にイメージフォーラムで再上映されていた作品。若い男女の初恋を描いた作品だが、恋愛ものが好きではない自分にとって見所はそこではなく、マレー系・中華系・ユーラシアンなどのエスニシティや言語、宗教のことなるマレーシアの姿を繊細に描きつつ、その境界を乗り越えようと試みていた映画として記憶に残った。


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『あんのこと』(入江悠監督、2024年、日本)

『つゆのあとさき』と続けて観たので言葉で感想を語るのが難しいくらいに打ちのめされてしまったが、『つゆのあとさき』と違うのは、それほどに露骨で具体的な描写をしなくともカットとカットの空白を委ねることによって、切実で重大なものごとを観る者たちに託すことができるという映像の力であったように思う。

なにごとも善悪に切り分けて後者を切り捨てて解決してしまう世の中でこうした作品が出てくることは希望のように思う。善か悪かに分けられない領域があり、悪をただ悪者として排除すればいいというものでない現実の難しさを提示するのはいいとして、それによって諦念や相対論に持ち込まれたいための工夫がもう一段あればなお良かったのではないか、と思う。

 


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