ほのかなる息してなげく水の上

演劇とか映画の記録がメインです。

2024年8月に観た演劇と映画の感想

若干のネタバレを含む可能性があります。観たものすべてを書いているわけではありません

 

映画

『時々、私は考える』(レイチェル・ランバート監督、2023年、アメリカ合衆国

舞台はアメリカの小さな港町。主人公のフランは小さな会社で事務の仕事をしている女性だが、職場のパーティーでは隅っこで静かに壁の花になっていて、同僚同士のお喋りにも加わらないタイプ。そこに同僚としてロバートがやってきて、少しずつ仲良くなっていくのだが、ロバートは外交的で映画好きで同僚とはすぐに打ち解けるタイプ、一方のフランは内向的で積極的ではないタイプなので全てが上手く行くわけでもない。

印象的だったのはフランがロバートの家を訪れた際、ロバートは過去の恋愛関係を語るが、恋愛について訊かれたフランは恋愛経験がないから自分はつまらない人間だ、と落ち込むシーン。仲良くなって会話することには私的な領域への侵入を伴うが、当然家族や恋愛などを訊かれたくない人もいるし、そうした会話に意味を見いだせない人もいる。個人的には恋愛にまつわる話でその人のことを知ろうとするのはムカつくし、本当にどうでもいいと思ってしまうので、ここには共感できてちょっと苦しくなった。

しかしそうした雑談とか個人的な会話では、分かりやすく自分の考えとか好きなものを提示しないと、内面がないものと思われてしまう。そうした人は「人付き合いが苦手」とも言われがちだけど、だからといって人と関わるのが苦手なことばかりでもないだろう。それは社会の習慣として人付き合いってこういうもの、と思われている枠の中で期待されているやりとりが苦手なだけで、その人なりの人との関わり方っていうのはあるだろう。

フランがそうやって分かりやすく自己提示することがなくても、彼女のコミュニティの中では、それでもいないことにされない関係を描いたことはよかったと思う。それに主人公のふたりは男女で、恋愛を思わせる要素もあるのだが、しかしなんでも恋愛の文脈で回収してロマンティックさで覆ってしまうようなことをしていないのも(恋愛にたいした価値を見いだせない自分としては)とても良かった。

 

 

 

『アディクトを待ちながら』(ナカムラサヤカ監督、2024年、日本)

6月末からケイズシネマで公開されたときは売り切れ続出で観られなかったのだが、有難くも再上映で観ることができた。

依存症患者らで作る、自助グループのようなゴスペルグループを題材にして依存症からの回復を描いた作品。薬物やアルコール、ギャンブル、買い物など様々な依存症を持つ当事者や家族らが作るゴスペルグループに、薬物所持で逮捕され活動を休止していた人気歌手・大和遼(高知東生)がゲストとしてコンサートを開くことになるのだが、当日に大和は姿を見せず、もしかしてスリップして捕まったのか……という憶測でグループの仲間たちやファン、報道関係者らが疑心暗鬼を生じて混乱に陥っていく。

一般に依存症といえば心の弱さとして個人の責任に帰されてしまうことが多いし、長く長く付き合っていかなければならない問題なのに、芸能人がスリップして再犯として逮捕されれば「また捕まった」とセンセーショナルに報道されてバッシングが起こるということもしばしばだ。仲間とともに経験を共有し、紐帯を持つことで孤立を防いで依存症と向き合っていく当事者たちのリアルな姿をこの映画からは伺うことができてとても良かった。わたしは一応は当事者家族なので、見ていてつらい部分もあったのだが、それよりも救いのほうが大きかった。

高知東生が出演しているほか、本作には多くの当事者やその家族が関わっている。演技や演出は商業映画のレヴェルとしてしては洗練されているとは言いがたい部分もあるものの(そんなことはケイズシネマなんだから織り込み済みで観ているのだが)、だからこそというべきか、演じること——言い換えれば、身体と言葉を通じて他者を理解し表現すること——の力を感じさせる映画だった。エンターテインメントとしても見やすい作品であり、それは言い換えれば都合のいい物語を書いているという批判もできるかもしれない。しかしながら偏見や無理解と対峙し様々な依存症の姿を提示する映画として観れば、そのようなことは些末に過ぎない。

 

 

『リッチランド』(アイリーン・ルスティック監督、2023年、アメリカ合衆国

こちらはドキュメンタリー。アメリカ合衆国ワシントン州にあるリッチランドという町は、マンハッタン計画で核燃料の生産拠点となり、長崎に投下された原子爆弾プルトニウムも生産し、冷戦下でも大量の核兵器のためにプルトニウムを生産した。しかし地域は放射能で汚染され、燃料生産の終了した現在は環境浄化が進められている。

核=原子力(本筋から外れるけど日本語で核と原子力のふたつを使い分けるのは、ときにすごく面倒くさい…)が町のアイデンティティになっており、リッチランド高校の校章はキノコ雲、そして高校のフットボールチームチームやマーチングバンドの名前は「ボマーズ(Bombers)」だから、外から見ればかなりギョッとする取り合わせだ。

この映画では、核=原子力の町としてアイデンティティを持ちながら、汚染で家族を失ったり、外から批判を浴びたり、キノコ雲の校章をもったり、除染作業をしたり、といった町の人々のさまざまな声が描かれ、それが単純にいいとも悪いとも言えず両義的な感覚とともに町の歴史に刻まれている様子を描いている。

現役の高校生たちはキノコ雲の校章を不適切だから変えたいと思うと語り、それでも町の人々はそれが殺人の兵器を肯定しているのではなくこの町の業績を表しているのだという。校章を変える運動を、あくまで原爆投下の是非ではなく子どもたちの校章として兵器が不適切だという立場から行った元教師は、それでも反リッチランドで反米だと烙印を押され、同僚からも話しかけられなくなったと語った。

そうした社会的な対立だけではなく、この町のミュージシャンや合唱団の歌や、詩も取り込み、また家族を労働上の被曝による癌で失い、政府からの補償もない市民や、町でただ幸せに生活する人々の声も伝えられる。そしてその地は、かつて先住民から軍が接収した土地だった…。

「社会」や「歴史」のことに留まらず、詩や音楽、そしてヴィジュアルアートまでを取り込んだ作品だがそれらがすべて地続きのものである、言い換えればアートの領域も人々の暮らしから切り離されないものであるという確信に基づいているようだった。社会派のドキュメンタリーを期待するならもう少し深く掘り下げてほしいという物足りなさはあるかもしれないが、最後に被曝三世のアーティストが広島からやってきて展示を行う場面は、自分たちの今の話としてわれわれに問いが投げかけられているように感じた。

 

 

『夏の終わりに願うこと』(リラ・アビレス監督、2023年、メキシコ・デンマーク・フランス)

おそらく死期の近い若い父親と娘を軸に家族のそれぞれを、ホームビデオのような距離感の寄った映像で淡々と描いていく。ドラマチックななにかが起こるでもなく、それでもたくさんの登場人物の人生の重みが垣間見られる。TŌTEMという原題が示唆するとおりにメキシコの民俗信仰に裏打ちされているように見え、もう少し調べてみたくなった。しかに邦題も日本版の予告編もどうにかならないものか…。USやオリジナルの予告編が良い。

 

演劇

イキウメ『奇ッ怪 小泉八雲から聞いた話』(8月23日夜@東京芸術劇場シアターイースト。作・演出:前川知大

小泉八雲の怪談5篇を劇中劇ととして、かつて寺であったという旅館を舞台に小説家とふたりの男が百物語を語るように怪談を演じる。はじめは単純に怪談を語るだけだったのだが、ふたりの男が警察官であることが明らかになり、やがて現実と怪談が(つまり劇と劇中劇が)交錯し、混じりあってゆく…。

八雲の怪談を原題に生き返らせる劇中劇だけでも素晴らしいが、それをもうひとつの奇ッ怪な物語に仕立て上げた脚本も、現実と幻想のあわいを巧みに調整する演出も照明も非常に完成度が高かった。思うに、圓朝以降の怪談というのはどうも理屈っぽくて、なんでも合理的に(といっても科学的な合理性ではもちろんなくて、恨みとか呪詛とかで)オチを付けようとしているように思え、それは嫌いではないのだけれど……、八雲が描いた、合理性とか言葉による解釈では割り切れない奇怪な話を、宙に浮くことを恐れずに描いたところはさすがイキウメの演劇だなあと思うところであった。それにしても終盤の牡丹灯籠=宿世の恋をあんなに綺麗に終わらせてしまうのかぁと感動に包まれ、こうしたロマンティックな演出がイキウメで観られたことにも感激した。

大満足だったのだが、欲を言えば内容に比して音響がやや重たすぎるようにも思えた(もうちょっとサラッとしてても良かったのではないか、というのとドラムがうまく舞台にあっていない感じもした)のと、終盤は劇中劇「宿世の恋」と現代パートのバランスがやや気になったか。というか宿世の恋の力が強すぎて、現代パートが少し弱くて上手く頭に入ってこないような印象があった(観る側の問題かもしれない)。

俳優はなんといっても浜田信也演じる小説家の黒澤が、この世の物ともあの世の物ともつかない感じの役柄がいつもながらすごく合っていた。客演の生越千晴さんも小さな所作の振り方や細かな反応まで、仲居役という目立つ役ではないのだけれど女将やお露と綺麗に立ち回っていた。

 

果てとチーク『はやくぜんぶおわってしまえ』(8月3日昼@アトリエ春風舎。作・演出:升味加耀)

初演は去年の初め頃で、今回はその再演。女子校が舞台で、ミスコンの中止、性被害といった出来事のなかで疑問をぶつけ合ったり不満や怒りをぶちまけたりしつつ、みんながお互いのことを思いやっているのに閉塞感のある空気を丁寧に描いている。この息苦しさって何だろう。おそらく自分もまたこのような善意の言葉によって人を深く傷付けているのだろう……と思う。

戯曲は升味加耀自身の高校時代のノンバイナリーとしての経験が反映されているといい、升味自身が演じるノンバイナリーあるいはトランスジェンダーノザワは、そこに投げつけられる“善意の”言葉や、被害者になりたくなくて付き合ってしまうことでより傷付いていく様子は、本人が気丈に振る舞っていることもふくめてとても苦しい。また山田遙野演じるまーちゃんの、被害経験から男性や恋愛を忌避し、男性嫌悪的な言動も行うようになる様子も切実だった(が、恋愛することに理由はいらないのに恋愛を忌避することには理由やトラウマが必要、という非対称性は、多くの創作でみられるものだが、なんとかならないものかとは思っている)。

彼女たちの十年後を描いた作品を準備中とのことで、こちらも期待したい。

 

風雷舫『ゴシック』(8月17日夜@小劇場楽園。脚本・演出:吉水恭子)

百年前の長野を舞台として、姥捨てを扱った作品。というと楢山節考を下敷きにしているのだが、それに加えて山中他界を舞台としているところがもうひとつの大きなポイント。由緒ある家の成員たち(本家と分家)が主たる登場人物で、還暦を迎える母は山に詣る(=自ら姥捨ての犠牲となる)ことを決める。それを察した家族たちはなんとか思いとどまらせようとする側と、伝統に従おうとする側に分かれて対立するのだが、そこには日本の近代化、家族の確執、家父長制の犠牲となった女性たちの思い、家の継承権などが絡んでいて一筋縄ではいかない。

母が山に入るために儀礼を行い、山では六道それぞれでこの世ならざるもの、人とも神ともつかぬものと関わる。客席に入った瞬間から、薄暗くて鳥居のある舞台には薄気味の悪さを感じるのだが、ここで人と死者が交わることで舞台は山中の他界へと変貌する仕掛けだ。これはタイトルが示唆するとおり、演劇ユニット鵺的の『バロック』へのオマージュである。

バロック』は観逃してしまったのもあって、演劇でここまでの描写ができるとは思っていなかったので度肝を抜かれたというのがまず率直な感想。戯曲、演出、演技、照明と音響、などが一体になって成し遂げた舞台芸術の可能性を感じさせるものだった。特に吉水雪乃さんの演じる繭は、前半はおそらく知的な障碍を持つ人物であったが、山に入ってからは神がかって人間の醜さをえぐり出す存在となり、そのキャラ変も含めて演技が素晴らしかったし、祥野獣一さん演じる鍵屋はこの世とあの世のあわいに生きるような狂気が舞台に彩り……というか極彩色を加えているようだった。雰囲気や演出が凝っているのだけどそれでごり押しする訳でもなく、物語もしっかりと破綻なく成立していた。

 

暁劇場『潮來之音 The Whisper of the Waves』(8月10日昼@小劇場B1)

台湾の劇団の来日公演。生と死のあわい、人と人とのあわいを演劇と舞踊で表現する。敢えて身体の演じ手と声の演じ手を分けることで、俳優の身体性に注目させつつどこか距離を置いたような観劇体験を演出していたのが印象的であった。アジアの演劇はもっと観たい。

 


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